どうしようもなくても大切なケ

少し前に気付いたことがある。
自分には、疲れたり、いやなことがあったりすると、
自分が気に入っているエピソードを引っ張り出し、
当時の映像を短編映画のように脳内再生する癖があるのだ。
状況から察するに、無意識にリラックスしたり安心したりするためにそんなことをしていると思われる。

そしてその気に入っているエピソードとは、
七五三とか卒業式とか授賞式とか結婚式とか
そういった華々しいハレの日のものでなく、
もうほんとにどうでもいい、
だけれども自分の中ではかなり大切にしている
スタメン的なケの日のエピソードなのである。

少し前といっても半年前ぐらいなのだが、
自分でこの癖に気付いてから、なんとなく、
どのエピソードを自分がいちばん気に行っているのか、
つまりどのエピソードがいちばん多く無意識に思いだされているのか、ざっくりと意識してみることにした。

まず、文句無しで一番思いだされているエピソードは、
「犬の前を通る練習の話」である。

私が前に住んでいた家は路地に面した家だった。
そしてとなりに新しい家族が引っ越してきた。
このとなりの家に道路から入るためには、
割と元気よく吠える犬がいる家の前を通らねばならない。
そしてこの新しい家のお兄ちゃん(小4ぐらい)はこの犬が怖いのだ。
怖くて、泣いてしまい、せっかく引っ越してきたのに、
道路から自分の家へ通って行くとがことができないという彼にとって、というか彼の家族にとっての問題が起きていた。
そこで、割と元気よく吠える犬の家のおばちゃんと、その犬が怖いお兄ちゃんとその家族、そしてそこらへんで暇をもてあましていた小学生のわたしやら近所のおじさんやらが立会のもと、お兄ちゃんの犬の前を通る練習がはじまった。
わたしも小2ぐらいだったからもうぼんやりとしか覚えていないが、お兄ちゃんは静かに泣きながら犬の前を何回か通り、まわりの人々が「いいぞ!」とか「その調子!」的な激励をとばしていた。
もう本当にどうでもよい話で、その後、お兄ちゃんは練習の甲斐もあってか、犬を克服し、自由に家の前と犬の前を行き来する生活を送っていて、なんだかこんなに覚えているのは私ぐらいなのではないかという、ちんまりした話なのだ。
ただ、なんか、こう、この話を思い出すと、
体温が0.1度上がるような、なんとも説明できない、
ふんわりした気持ちになる。

そして主に、疲れた帰り道とか、明日いやなことがある夜のふとんの中とかで、この話を思い出すのだ。

この話以外にも、
・小学生の時、犬がほしかったけど、家では飼えず、隣の家の犬の散歩に一緒について行って、犬のうんちの匂いをはじめて嗅いで、「豆腐のにおいがするね」と飼い主であるおばちゃんに言ったけど、賛同を得られなかった話

・小学校の時、脊柱測灣検査の前夜に、父親とその検査の話をして、父親から「私のおしりはどうですか?」と大きな声を発しながらパンツを下げろと言われて、なんだかよく分からないけど二人で爆笑した話。

・友人の家で、ソファに乗りながら、隣に計算機を置いて、すごい大きな桁数の数字を打ち込み、今このソファは宇宙に浮かんでいて、計算機に打ち込んだ数字ほどの速度で高速前進している、という設定の遊びにかなりのめりこんでいた話。

とまあ、いろいろある。

何が言いたかったかというと、
こういう主に子ども時代のどうしようもない話が、
大人になったの時の精神安定剤になる場合があるということである。

私の場合、自分のケの日を支えてくれるのは、
過去のどうしようもないけれど大切にしたいケの日々にほかならないのである。