小柄と小太りとテニスラケットと。

男子ソフトテニス部だろうか。
ラケットケースを背負ったジャージ姿の中学生男子が二人。
一人は小柄で、一人はふくよか。
小柄がふくよかのスマホを奪おうとして、きゃっきゃっとじゃれている。
ふくよかが走りだし、小柄が追いかける。
ふくよかの背負うラケットケースに手を伸ばし、手をかけた小柄。
きっと、その気になって加速すれば、
小柄はふくよかとの距離をつめ、
ふくよかを止め、
彼のスマホを奪い取れたであろう。
しかし、小柄は、
手をかけたその瞬間を楽しむように、
ラケットケースにつかまりながら、
ふくよかと並走していた。

ふくよかのスマホを奪うことが小柄の楽しみなのではなく、
何かをきっかけとしてふくよかと、きゃっきゃっとじゃれあうことが小柄の楽しみだったのではないか、
そう思えた。
だから、小柄は、
ふくよかのラケットケースに手をかけたその瞬間を意図的に時間に引き伸ばして、三十路にはまぶしすぎる笑顔をはじけさせていたのであろう。

近頃思うのは、
「これはひょっとして、ものすごく良い一体感なのではないか?今が最も楽しいときなのではないか?」
そう気づいたとき、
それは確かに心地よさや楽しさのピークなのである。
しかし、
そのピークを迎えると同時に、
まもなくして、
その楽しさはゆるやかに下降始め、
その楽しい集まりはゆっくりと終わりに向かっていくのではないか。

私にとっては、学生時代の卒業間際の年末~3月にかけての期間が、その一連を感じる良い例であった。

こういったように考えると、
怒り新党の夏目アナの卒業や、
モヤさまの大江アナ、狩野アナの卒業は、
寂しいけれど納得できることなのである。

怒り新党もモヤさまも素晴らしい一体感を感じられ、とても面白い番組だった。
最近はモヤさまから遠ざかっていたが、最終回の狩野アナは、爆発的におもしろかった。

こういった類いの一体感やおもしろさのピークは、一瞬なのだ。
そのピークは一定期間での保存ができないのだ。
とするのが、私の仮説である。

そしておそらく、人生はそのピークを作ってはくだり、作ってはおわり、その繰り返しなのであろう。

男子ソフトテニス部の小柄とふくよかのピークは、私がふと見かけた、彼らが並走していた瞬間だったかもしれない。

そんなことを考える。
たい焼きを食べながら、
帰り道をすすむ私に、夜の風が吹く。

こんな文章を書くと、ただの間食にほかならない、このたい焼きにも、何か意味があるのではないかと思えてきて、罪悪感が半減するのである。

たい焼き、万歳。