ざわめきたつ、ピンクの心

本日電車に乗っていたら、
小さい女の子が、
ラメが入ったシャイニーピンクのポシェットを持っていた。

女の子の人気カラーといえば、
ピンクの一巨頭。
ピンクの人気は長らく衰えておらず、
順風満帆の超巨大企業並の安定感といったところ。

しかし、そのピンクを脅かす、
カラー界の黒船、
ラメ入りピンク、シャイニーピンク。

ピンクとシャイニーピンクがもし人だったら、
こんな感じになるのかと思いながら。

順風満帆の超巨大企業でも
アイデンティティがわからなくなることってあるのでしょうな。

行け行け!カラーレンジャー!Vol.1
『ざわめきたつ ピンクの心』
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お盆

f:id:ariooo:20200405154925j:plain大好きなすいかの話のなかでも、
お盆の回は特に好き。
この季節になると観てしまう。
生きている人間と亡くなった方が一緒に存在するお盆。
いつもより少し心強く、なんとなくにぎやかで、夜の空が少し近く感じる季節。
余ってたビールをひやしておけばよかったなぁ。
おセンチ、おセンチっと。

誠意って何かね。

モテ期
という盛んな時期を体験したことはないし、
体験することをまだあきらめてはいない。

どうしようもない書き出しになってしまったが、

今夜書きたいこと、それは、

モテ期の波があるように、

お菓子の波もあるのではないかとのこと。

前触れもなく突如急激に家に集まってくる、数々の頂き物のお菓子。
そんな現象を、体験したことないだろうか。

今、我が家には、
いもようかん、
焼き菓子、
アップルパイ、
スポンジケーキ
アイスが大集合している。

全て食べたい。
食べきりたい。
その気持ちに嘘はない。

しかし、無情にも迫る賞味期限。

食べるの?食べないの?
あの子にするの?私にするの?
2番目でもいいから、私を選んでよ!
私こんなにあなたを想ってるのに!

お菓子たちが静かに訴えてくる。

君、誠意って何かね、
と自問自答する夜がつづく。

その先のポストモダン

オギュスタン・ベルクランドスケープの本を読んで以来、
日本のポストモダンが何なのかということをうすぼんやり考え続けながら生きている。

西洋に追い付け追い越せしようとしてきた日本が、それを追い越したとき、
技術力以外の、国力以外の日本の価値は何であるのか。
日本のポストモダンとは何なのであるか。
ひいては、現代人、個々人のポストモダンとは何なのであるか。

私は、ポストモダンを考えるなかで、星野源にたどり着いた。

星野源のソロデビュー期の音楽は、
ものすごくシンプルである。
シンプルな旋律で、
日常を見つめ、
小さな心の動きをとらえ、
自虐ながらポジティブな歌詞を歌う。

そこから次第に、
星野源が愛するブラックミュージックと星野源本来の音楽の融合が図られる。
よりダンサブル、
よりハッピー、
よりキャッチー、
な音楽となり、人気もうなぎのぼりとなる。

つまり、
小さなできごとに注目する独自の視点を活かし、
よりポップに脚色する力を海外に借りて、
結果的によりキャッチーになっていく、

この過程は日本のポストモダンの一つではないのか、
ポスモンなのではないか、
ポスモンGO!なのではないか。

私が何が言いたいかというと、

ポスモンへの理解をより深め、
持論をさらに発展させていくためにも、
星野源のアルバムは、
購入したいというか、
もはや購入せざるを得なく、
この費用は嗜好品への出費というか、
現代人への命題に答えるための出費であり、
生活費に近しい側面を持っているとも言えるため、
個人の出費ではなく、
家の出費として計上しても、
客観的に何ら問題はないと判断できる、

ということである。
じゃじゃーん。

小柄と小太りとテニスラケットと。

男子ソフトテニス部だろうか。
ラケットケースを背負ったジャージ姿の中学生男子が二人。
一人は小柄で、一人はふくよか。
小柄がふくよかのスマホを奪おうとして、きゃっきゃっとじゃれている。
ふくよかが走りだし、小柄が追いかける。
ふくよかの背負うラケットケースに手を伸ばし、手をかけた小柄。
きっと、その気になって加速すれば、
小柄はふくよかとの距離をつめ、
ふくよかを止め、
彼のスマホを奪い取れたであろう。
しかし、小柄は、
手をかけたその瞬間を楽しむように、
ラケットケースにつかまりながら、
ふくよかと並走していた。

ふくよかのスマホを奪うことが小柄の楽しみなのではなく、
何かをきっかけとしてふくよかと、きゃっきゃっとじゃれあうことが小柄の楽しみだったのではないか、
そう思えた。
だから、小柄は、
ふくよかのラケットケースに手をかけたその瞬間を意図的に時間に引き伸ばして、三十路にはまぶしすぎる笑顔をはじけさせていたのであろう。

近頃思うのは、
「これはひょっとして、ものすごく良い一体感なのではないか?今が最も楽しいときなのではないか?」
そう気づいたとき、
それは確かに心地よさや楽しさのピークなのである。
しかし、
そのピークを迎えると同時に、
まもなくして、
その楽しさはゆるやかに下降始め、
その楽しい集まりはゆっくりと終わりに向かっていくのではないか。

私にとっては、学生時代の卒業間際の年末~3月にかけての期間が、その一連を感じる良い例であった。

こういったように考えると、
怒り新党の夏目アナの卒業や、
モヤさまの大江アナ、狩野アナの卒業は、
寂しいけれど納得できることなのである。

怒り新党もモヤさまも素晴らしい一体感を感じられ、とても面白い番組だった。
最近はモヤさまから遠ざかっていたが、最終回の狩野アナは、爆発的におもしろかった。

こういった類いの一体感やおもしろさのピークは、一瞬なのだ。
そのピークは一定期間での保存ができないのだ。
とするのが、私の仮説である。

そしておそらく、人生はそのピークを作ってはくだり、作ってはおわり、その繰り返しなのであろう。

男子ソフトテニス部の小柄とふくよかのピークは、私がふと見かけた、彼らが並走していた瞬間だったかもしれない。

そんなことを考える。
たい焼きを食べながら、
帰り道をすすむ私に、夜の風が吹く。

こんな文章を書くと、ただの間食にほかならない、このたい焼きにも、何か意味があるのではないかと思えてきて、罪悪感が半減するのである。

たい焼き、万歳。

ブリジットジョーンズの集大成

日頃の眼精疲労の治療のため、
キングスマンでハマった、コリン・ファースを眺めようと、
軽い気持ちでブリジットジョーンズを見にいったら、結構おもしろかった。
映画を観たい方は以下内容なので、読み進めるべからずで候う。

毎度のラブコメなのだが、
おそらく、現実味を出す気が皆無な製作陣の意図は駄々漏れな感じで、
むしろファンタジーに感じる。
要約すると、
妊娠したけど、パパがジャックかマークか分かんないよー!どっひゃ~!でも産む~!といった感じ。

ジャックとマークの間で揺れ動く、
ブリジット。
私の深読みのしすぎかもしれないけど、

SNSとかインスタみたく、
おしゃれで、
キャッチーで、
一過性だけれども、
ものすごいインパクトを求める現代の風潮と、

服装も考え方も、
堅苦しく、
おもしろみはないけれど、
誠実さがある、
伝統的なイングランドの美徳観の間で、
揺れ動くブリジットの姿には、
何となくメッセージ性を感じた。

ブリジットが揺れ動く2人の男性がイギリス人とアメリカ人なのも、何となくおもしろい。
(ちなみにイギリス人がコリン・ファース堅苦しいコリンも麗しいの~)

いろいろあって、
ブリジットは臨月で会社をクビになり、
『いつかまた、誠実さが再評価される日がくるわ!』
と捨て台詞を吐いて、会社を去るのだけど、ブリジットには誠実さはあまりない。ていうかない。

でも、それは、
私は誠実さに価値があると思うわ!
ひいては、
現代っぽさより、伝統的なイングランドの気質を大切に思うわ!
さらにひいては、
ジャック(現代っぽい人)よりもマーク(堅苦しい人)のが好きだわ!
と言っているように聞こえた。
(こういのを拡大解釈という。)

例え、自分が誠実でなくても、
誠実であることに価値があると感じている場合、
それに気づくのは難しい。

自分は、何を大切にしているのか、
自分の価値観は何なのか、
いざ口に出す、文字に書くとき、
それはたいそう難しい。

自分とは正反対だけど、
なんかいいなと思える人に出会えた時、
それは自分が根底に持っている価値観に気づけるチャンスなのである。

それをこの映画はいっているのだろう、
と勝手に解釈し、
うなずきながら、
一人、丸亀製麺で、
温玉ぶっかけをすするのである。
しょうがを入れ忘れるという痛恨のミス。
あ~コリンと温玉ぶっかけ食べたいな~